この一週間(2011年の地震当日)
- 2011/3/19(土) 午後 3:35
あの震災から一週間、皆様いかがお過ごしでしょうか?
電力の影響はない西の方でも、物資に関しては影響が出ていると、
友人から聞きました。
大きな影響を受けている、岩手、宮城、福島、そして茨城の方々に比べれば
私の住んでいる地域(未だ停電なし)、
働いている地域(そもそも停電該当から外れている)への影響は
なんてことはありません。
が、やはりそれなりに、少しは 「非日常」 な日々となっているわけで、
自分への備忘録(?)という意味も込めて、この一週間をどのように過ごしたか、
当日とその後の2回に分けて、書きたいと思います。
■3月11日(金)
あの地震の時間までのことは覚えていません。
何も考えず、ただいつものように起きて仕事に行き、仕事をしていました。
そして午後、あの地震が起こりました。
最初は 「あれ?地震だね」 ぐらいの小さな揺れでしたが、
それがどんどん大きくなって、さすがに 「これはヤバい」 と、
避難訓練以外では初めて、机の下に身を隠しました。
大きな揺れがなかなかおさまらなくて、本当に怖かったです。
「日本の建物は耐震構造では比較にならないぐらい頑丈なはず」
そう信じてひたすら揺れがおさまるのを待っていました。
ようやくおさまったのは何分後だったでしょうか。
宮城やその近くでは震度7だったこと、
ネットで見た人からの情報で、そこまではすぐにわかりました。
すぐさま、皆が家族や友人の安否確認のために電話やメールをし始めましたが
やはり、つながりません。。
でも、こういうときに自粛しろというのは無理な話です。
旦那や旦那の家族とはつながらないので、私は実家の家族へ連絡しました。
幸い、遠くへの電話はすぐにつながり(会社の固定電話からだったこともあり)
自分も職場のみんなも無事であることは伝えられました。
そしてその後、こちらの家族の安否もわかり、
無事家にたどり着いた旦那から家の状況も聞き、ようやく一安心できたのでした。
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しかし、当然のことながら、電車はすべて止まっていて、
いつ復旧するかもわからない。
できることならすぐにでも歩いて帰りたい気持ちになりましたが、
「しばらくは職場待機」 との命令で、身動きがとれません。
ただ、夜になって少しずつ地下鉄などが復旧し、
途中まで乗っていってそこから歩く、という人がたくさん出て来て、
最終的に会社に泊まったのは(つまり、帰宅難民となったのは)
100名以上いるフロアで、私を含め10数人だけでした。
私だって、本当は歩いてでも帰りたかったです。
距離にして30kmほどでしょうか。 歩けないことはありません。
が、同じ方向の人がいない。
さすがに夜道をひとりで行くのは無理と思い、やめておきました。
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ずっと職場にいましたので、外の状況、震源地に近いところの状況などを知るには
ネットの情報だけが頼りでした。
でも文字ばかりではなかなか状況がわかならくて。。
それでも、停電もなく、ライフラインはすべて通常通りだったことが
本当に有り難かった。
東北の状況を知ったのは、夜中、役員室のテレビを見たときです。
テレビからの情報ってすごいんだなと、改めて思い知らされました。
と同時に、 「こんなにひどいことになっていたなんて・・・」 と言葉を失いました。
その後の影響など知る由もなく、とにかく 「今日はここで寝るしかない」 と、
ただそう思って、この日は終わったのです。